スタッフブログ

 松山もようやく梅雨が明けましたが、すっきり青空というわけでもなく。
 このまま順調に1週間ほど過ぎれば、野菜の高騰がニュースに流れそうな天気が続いております。

 皆様、いかがお過ごしでしょうか。
 うちの塾は本日から7月末の3連休で、私は昨日が定休日なので、都合4連休。
 少しはのんびりしたいところですが、たまった宿題の半分もこなせないところでおそらく休みも終わることでしょう。ただ、この休みがなければ日常業務を行いながらその宿題をこなさなければならないわけで、人間贅沢をいえばきりがありません。
 この4日間、今回こそは有意義に過ごすぞ。と書きながら、30数年前にも毎年この時期にそんな決意をしていたことを思い出しました。あれから幾星霜。休みの期間は10分の1に減り、身体にも若干の不調を感じるようになりましたが、信用できない自分には微塵の揺るぎもありません。今年こそ今回こそとの願いと共に夏休みを迎えております。

 といったあたりで前回の続きを。

 本能寺の変の2年前、佐久間信盛親子、林秀貞らが織田家から追放されました。
 林秀貞は信長の元服直後からの一番家老でしたが、「24年前の家督相続の際に自分を裏切ろうとしたことがあった」というほとんど言いがかりに近い理由で追放。直後に死去。
 佐久間信盛も桶狭間の合戦以前から信長に仕えていた重臣で、当時は石山本願寺戦の責任者。三河・尾張・近江など東海近畿7ヶ国の与力をつけられ配下の軍団は当時の織田家中最大。作家の津本陽氏いわく「織田株式会社の副社長」ともいうべき地位にありました。しかし、石山本願寺戦が天皇の仲介により和睦に決した直後、信長から「命懸けで戦わなかったので勝てなかった」的な19ヶ条にわたる折檻状を突きつけられ、嫡男と共に織田家を追われます。高野山に逃れるも留まることを許されず流浪。家臣にも見捨てられて本能寺の変の5ヶ月前に死去しました。
 この佐久間信盛が占めていた近畿におけるポストの後任者が明智光秀でした。

 信長とも親交が深かった宣教師ルイス=フロイスは「日本史」の中で光秀のことを「裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった」と述べていますが、フロイスは別の箇所で信長についても同じような感想を述べていますので、要は信長と光秀は似た者主従だったのでしょう。似ていたからこそ光秀は、常に主君が欲するものを前もって用意することができ、異数の出世を遂げました。
 そして、性格が似ていればこそ光秀は佐久間・林が追放されたときに、天下統一後の信長のヴィジョンがはっきりと脳裏に浮かんだのだと思います。
 つまり、天下統一後に信長は現在の織田家家臣を残すつもりはない。栄えるのは織田家だけ。5年後の佐久間・林は自分である、と。
 織田家中でもインテリで通っていた光秀であれば史記の有名な「狡兎死して走狗烹らる」というフレーズもそのまま浮かんだはずです。戦慄が走ったことでしょう。蛇足ながらご説明申し上げると、敵国がすべて滅べば、次はそれに尽くした功臣が滅ぼされるという意味で、漢の大元帥韓信が処刑される少し前に皇帝劉邦に吐いたセリフとしても有名です。
 光秀は信長の天下一統が進まなければ「無能」として処分されるが、統一が完成すれば「無用」として処刑されるであろう自らの運命をまざまざと感じたはずです。

 「なぜ、光秀は本能寺の変を起こしたのか」は、日本史をめぐる最大の謎の1つであり、分類すれば50を超える説が唱えられているそうです。いわく、光秀発狂説、秀吉黒幕説、家康黒幕説、足利義昭黒幕説、果てはルイス=フロイス黒幕説まで。しかし考えてみれば、後世のわれわれが本能寺の変に謎を感じるのは「どうせ三日天下に終わるなら、織田家のために忠誠を尽くして大々名になる道を目指すべきだったのに、なぜ光秀は謀反の道を選んだのだろう」という固定観念があるからでして、光秀にはそんな幸せな老後など最初から用意されてなかったのです。

 とここまで書いたので一息に終わりたいところなのですが、少々長くなりすぎたようですのでもう1回だけおつきあいください。

 ということで本日はこれまで。
 ご退屈様でした。

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