スタッフブログ

 先生の若い晩年の終幕は意外に早く訪れた。

 病名は「原発巣不明頸部リンパ節癌」。
 つまり、どこで生産されているのかわからないが首のリンパ節に癌の支店がある。これをとってもかまわないが、本店がわからない以上、最終的な結果は同じである、といったなんとも救いのない病名であった。

 しかし、先生は何というか慌てず騒がず、普段通りであった。

 毎日、病室のベッドの上で海外の推理小説の新刊を1~2冊ご覧になり、お好きだった鮨をいくつかつままれ、眠りに就く。変わりがあるとすれば鮨が日によって鰻になるくらいであった。普通に話し、笑い、怒る。泣くことも、過去を悔やむことも、将来を恐れることもない。拍子抜けするほど、普通そのものだった。

 あのとき病床で何を考えていらっしゃったのだろうと、今になって思う。
 先生は「構わんよ」というのが口癖だった。何かミスをして謝った時もこの「構わんよ」という言葉で許していただいたことが多かった。今、思うと先生は早く着きすぎた自らの死に対しても「構わんよ」と声を掛けてらっしゃったのかもしれない。

 先生の臨終のとき、私は先生と手をつないでいた。男同士で手をつなぐというのもどうかと思ったが、私も手持無沙汰だったし、寂しがりやの先生が少しは心強かろうと思っただけである。
 脈に合わせてか鼓動に合わせてかは知らないが、手を握って緩めてを規則的に繰り返しておられた。かなり長い間続いたように思う。そして、そろそろ今日は帰ろうかなと思い始めた時、先生の呼吸に少し変化が生じた。

 それから後はあっという間だった。
 可笑しかったのは、医師の「ご臨終です」の声の直後に少し強く先生が手を握られたことで、もしそれが医師の声に反応してであったのなら皮肉好きな先生の最後の置き土産であったような気がする。

 先生とテレビを見ていると「この人に学生の時こんなことを言われた」とか「この人と弁護士会でこんな話をした」とかおっしゃることが多かった。いずれも顔を見れば誰もが知っているコメンテーターや弁護士だった。一番驚いたのは、NYでかつて一緒に暮らしたこともあるという、毎年クリスマスカードが来ていた親友の米国人弁護士が東大大学院の客員教授に就任した時。しみじみ、「この人はこんなところで何をやっているのだろう」と先生の顔を見つめてしまった。

 人は、その人に合った舞台があると思う。それが大きかろうと小さかろうと、あるいは華やかだろうと地味だろうと、それは関係ない。ただ、自分に合った舞台にいなければできる仕事もできずじまいで終わってしまう。

 私は、先生は松山に帰ってらっしゃるべきではなかったと思う。確かに故郷ではあったが、松山は先生の本来の舞台ではなかった。その結果、どこかチグハグで、空回りしているような、労のみ多き人生を背負いこまれたのだと思う。

 先生がお亡くなりになる時、私はむしろ祝福したいような気分であった。
 ちょうど、進路を間違えて川に迷い込んでしまったクジラが海に戻っていくのを見送るように。
 「ようやく本来の場所に戻れますね、どうぞお気をつけて」と心の中で先生の後ろ姿に手を振り続けていた。

Humpback Whale

 I先生の享年は56歳であった。広大無辺の知識とともに、それに勝る広く深い心をお持ちであった。
 謹んでご冥福をお祈りする。
 合掌。

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