スタッフブログ

 去る21日は土用丑の日だったとか。
 全国で、というか、全アジアで多くの鰻が昇天したことと思いますが、いかがですか皆さん、鰻召し上がりました?
 というわけで、本日は鰻の思い出など。

 子供の頃、我が家は養鯉業を営んでいた。養鯉業とは、錦鯉の養殖をする仕事である。自宅兼店の敷地は1500坪。大きな池がいくつか点在していて、そこに鯉を飼っておき、夏から秋の頃、池の水を抜いて鯉を展示用の池に移す。この作業を「池上げ」という。私や妹のような小学生から、日当を払ってお越しいただいたご近所のご婦人方に至るまでを総動員し、まぁ、なかなか賑やかな季節の恒例行事であった。

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 で、この池上げをすると、大きくなった鯉と久しぶりに対面できるだけでなく、思わぬ副産物がある。鰻だ。

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 鰻というのは、日本中の川や池や沼に棲んでいるが、これが全部フィリピン生まれなのだそうだ。川が通じていない沼などにはどうやってたどり着くのかというと、陸を這っていくというのだからエライものである。
 まぁ、そんなガッツのあるウナちゃんなので、鯉の稚魚がごっそりいる私どもの池にも当然お越しになる。そして、「もう食えん」というだけ目一杯稚魚を召し上がり、丸々太った状態で、われわれとご対面の運びとなる。

 今で言うと「天然物の最上級品、特Lサイズ」といったところだろうか。

 その鯉の敵、憎い鰻君を3日~1週間ほど井戸水で飼って泥を吐かせると、いよいよ、われらの食膳にご登場である。死んだ親父が器用な人で、錐と小出刃を操って、鰻屋顔負けの勢いでさばいていた。

 で、味はどうだったか?

 まぁ、鰻の味であった。
 もう少し丁寧に言うと、最近スーパーで買ってくる鰻に比べると味が濃かったような記憶がある。

 少々話が長くなりそうなので、続きは次回。本日はこれまで。
 御退屈様でした。

 今日は若干軽いお話など。
 ときどき本を読んでいて絶妙の切り返しというのに出会うことがある。

 例えばこういうのだ。

 「酒を飲んで見苦しい醜態をさらすなど言語道断だ」と怒っているある文化人に対して立川談志氏の放った一言。
 「馬鹿野郎。見苦しく醜態をさらすために飲むのが酒なんだ」

 確かにこう言われると返す言葉が難しい。さすがは参議院議員のとき佐藤内閣の沖縄政務次官を酒でしくじった人である。

 あるいはこういうのもある。

 三木武吉氏といえば香川県高松市が生んだ戦後保守政治の大物政治家である。”宇宙人”鳩山由紀夫氏がよく「ジイサン」と呼ぶ鳩山一郎総理の盟友であり、昭和30年の保守合同の際、「自由党」と「民主党」を合同させて「自由民主党」を結党した立役者である。

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 その三木武吉氏が若き日に衆議院議員総選挙に立候補したとき、立会演説会で大物議員からこう言われた。
 「今回この選挙区から出馬しているある無名議員は、家賃2年分、米屋に1年分の支払いを溜めている。このような者が立候補すること自体が非常に問題である」
 これに対し、三木は慌てず騒がず、「先ほどある有名議員が無名議員とおっしゃったのは不肖、この三木武吉のことであります。三木は貧乏ですから借金はありますが、先ほどの数字に誤りがありましたのでここで訂正しておきます。正しくは、家賃3年、米屋に2年であります。ただし、私がそこいらのごろつきと違うことは、 現に今日、この演説会場にその米屋さんと大家さんがいらっしゃっていることであります 」
 ここで大家と米屋が立ち上がって一礼すると、会場は拍手と爆笑に包まれ、「エライぞ、借金王」と野次が飛んだという。

 スケールは違うが私の友人にもエライ人がいる。東京で役者をやっているW君。皆様もご存知かもしれないが役者というのは貧乏自慢に事欠かない人が多く、なかなか生活は大変らしいが、若い時W君はいつ見ても同じ、なんというか海藻のようになったジャージを着ていた。
 ある時、別の友人O君が服装についてW君に尋ねた時の答え。
 「おれたち役者っていうのはさあ、舞台の上でいつも華やかな衣装を着ているから、普段の服装は全く気にならないんだよね。役者の生理かなあ」
 立て板に水のようなスラスラ淀みのない答えを聞き、一同「成程そんなもんか」と思わず納得、単純な私などは真っ先にうなづいたものだった。ただし、帰りの電車の中でのO君の言葉を聞くまでは…
「でもさあ、役者がみんな普段あんな恰好をしないといけないのなら誰も役者になんかならないと思う」

 いずれにせよ、世の中にはエライ人がいる。常にピンチをチャンスに変えられる人。そんな人たちと間違っても口喧嘩などしてはいけない。下手をするとこちらが正しいことを言っているのに満座の中で赤っ恥をかかされることになりかねない。

 そんな人たちを見るたび、私はいかに自分が善良で、天使のように無垢な心をもっていることかと感慨にふけるのである。

 といったあたりで本日はこれまで。
 御退屈様でした。

三ちゃん

 別に頭がおかしくなって自分のことをちゃんづけで呼び始めたわけではない。
 三ちゃんとは我が家の愛犬、三の愛称である。
 三は7月7日の午前6時に息を引き取った。12歳と2カ月だった。

 三が我が家にやってきたのは、我々夫婦の結婚2ヶ月後だった。

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 ある日、妻の従姉妹から「飼っていたご婦人が亡くなったので、処分されそうになっているコリーがいるのだが、見てみないか」という電話がかかってきた。聞けば4歳だという。もう大人になっているということで少し躊躇したが、我々が断れば「処分」である。何はともあれ駆けつけて、まずは大きさ、姿の優雅さに驚いた。父方も母方もアメリカやイギリスのチャンピオン犬の血筋である。

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 我々などよりよほど毛並みがいい。しかも、性格が温和である。初めて会ったのに威嚇や警戒などゼロである。妻よりよほどおとなしい。
 これならやっていけるかと、我が家に連れてきたのがまるで昨日のことのように思われるが、もう8年前である。

 三という名は前主の命名である。自分が飼う3頭目のコリーという意味だったらしい。ただ、おかげで動物病院で薬などもらうときの氏名欄は「三好三」であり、私は少々きまり悪い思いがした。

 犬は人間の6倍のスピードで年をとる。三は来た時から去る時まで子のない我々夫婦にとって子供であったが、途中から目上の子供になり、年配の子供、最後は老衰で死んだ子供になった。当たり前のことであるが、ひどく不思議な気がする。

 優しい性格だった。一度もうなり声をあげたことがなかった。自分のことを子イヌだと思っていて、散歩のときも大きな犬を見かけるとそばに寄らないようにし、小さな犬を見ると一緒に遊びたがった。

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 死の3か月前から少し毛の色が薄くなってきた。1か月前からは後ろ足が不自由になってきた。ただ、食欲も落ちず元気に散歩もしていた。死の1週間前からは前足も利かなくなってきた。3日前には体を支える力もなくなった。それでも我々夫婦が行くと、苦しそうな息が和らぎ、少し甘えるそぶりを見せた。

 7月6日の午前2時くらいだったか、実家に泊まっていた妻から(三は妻の実家にいた)電話があった。三がどうしても鳴きやまないのだという。私は枕が変わると寝られない性質で、なるべく自宅以外には泊りたくない方なのだが、その時は不思議と「仕方ない、今夜は妻の実家に泊まろう」とすぐに決めた。別に今夜がヤマだとか思ったわけではない。こちらの計算ではもう1月はもつだろうと思っていたくらいだ。

 とりあえず、三のもとに行き、しばらくあやしてやると三は鳴くのをやめ、寝息を立て始めた。午前4時くらいだった。妻はその後、午前5時にもう一度三に起こされたらしいが水を一口やるとまた眠り始めたらしい。

 そして、義母が起きた午前8時にはもう三は息を引き取っていた。

 七夕に逝くなど、優美であった三にふさわしい。天の川の星の一つになって無明に漂う我々夫婦を照らしてくれるつもりなのだろうか。

 三よ、来世でまた会おう。一緒に野原を走ろう(…と言いつつも運動が大嫌いだった三が走ってくれるとも思えないがそれはともかく)。

 と、今回もしんみりした話で誠に申し訳ないが読者の皆様にご報告申し上げて、本日はこれまで。
 御退屈様でした。

 和田先生の話は単純明快であった。

 詳しくはご自身でご覧いただけばよいがおっしゃっている内容を私流にまとめると以下のとおりである。
①受験で毎年(センターや各大学で)出題されるのは実は(ほぼ)同じ問題(のローテーション)である
②ということは、過去に出題された問題を(一通り)暗記しておけば今年出題される問題も(そのまま)その中に含まれている
③よって、そういう問題集を(解かずに)(問題と解答を)(理由付きで)丸暗記すれば受験英語など恐るるに足りない
というものであった。

 「問題集を解かずに記憶していく」というのは、今では珍しくないが、当時としては非常に斬新であった。
 言ってみれば食事をすべてミキサーにかけてそれを飲む、というくらいに奇異な意見に思えた。ただ、その根拠はなるほど、と納得せざるを得なかった。何せその方法を自身が実験して東大理Ⅲに現役合格しているのである。華岡青洲の妻みたいなものだ。それに何より私には氏の意見への反証を用意する時間的余裕もなかった。

 使うテキストは桐原の「英語頻出問題総演習」、すなわち「即戦ゼミ」である。当時この本は出版されたばかりであったが、氏は「旺文社の英文標準問題精講の海賊版だが、よくできている」とご推奨であった。

 この「即戦ゼミ」を4カ月でどうやって覚えるか、一応計画を立てた。
 英語については自分の記憶力に全く信用が置けなかったので、とりあえず5段構えで覚えようと思った。つまり、1回目は1ヶ月かけて一通りを覚え、2回目は20日かけて忘れているところをさらい、3回目は2週間でそれでも覚えられないところを、といった要領で質で劣る記憶を回数で補おうとしたのである。

 もちろん、英語の対策がそれだけで足りるわけがない。同じようなやり方で、「試験に出る英単語」「試験に出る英熟語」を同時に進め、一段落がついたところで当時の受験生のバイブル「英文解釈教室」を投入、同じ要領で3回ほど繰り返した後で、「長文読解教室」、さらに最後には当時KKベストセラーズから出ていた「試験時間に勝つ! パーフェクト英文解釈 ― 長文問題のスピ-ド速解法」というテキストを2回ほど繰り返したところで、時間切れとなった。

 結局、模試も受けていないし、赤本も解いていない。というより、受けられなかったし、解けなかった。勉強を始めた時期が遅すぎたので、受験生が受ける模試はもう店じまいしており、また、赤本は悪い結果を想像すると怖すぎて最後まで開けなかった。今から考えれば、模試や赤本といった受験ツールを利用せずに受験対策を行うという愚かの極みのような対策であった。駅に行ってみると終電がもう出ていたので、コンパス片手に徒歩で目的地を目指さざるを得なかったのである。

 結果はどうだったか。

 早稲田には落ちたが、それ以外に受けた大学は全て受かった。落ちた早稲田も得意の日本史が撃沈したせいで、英語はむしろ易しかった。和田先生の方法は間違ってなかったわけである。

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 よく予備校や塾の広告で「3ヶ月で偏差値が35から65へ」といったのを見かけるが、私は誇大広告だとは思わない。私もまさにそうであったし、しかも独学であった。もっとも30もアップする偏差値などは初めがよほど低かったということだが…。

 正しい方法と最低限の能力、そして何より「信じる力」があれば、偏差値30など、上がって当たり前、上がらなければうそだと思う。
 
 …と、そんな苦労をして身につけた英語に関する知識であったが、大学に入って1年遊んでいる内に風の前の塵、きれいさっぱりなくなってしまった。現在は元の偏差値程度の英語力である。

 よい子のみんな、4カ月で身につけた知識は放っておくと4カ月でなくなるんだよ、みんなも気をつけようね。めでたし、めでたし…

 と、昔話風のオチがついたところで、本日はこれまで。
 御退屈様でした。

 ここしばらく私事で多忙を極め、ブログの更新が遅くなりましたことをまずはお詫び申し上げます。
 何があったかは後日改めて申し上げるとしてまずは宙ぶらりんになってしまった前回の続きをお話し申し上げましょう。

 
 「応用問題の基礎は基本問題である」というのは正しいが、「基本問題がわかれば応用問題も(自然に)解ける」わけではない。
 これをあいさつの言葉で例えると、基本の「こんにちは①」を覚えた後、その延長である「こんにちは。今日はよいお天気ですね②」を習得するのが通常であろう。
そしてその後「本日はお足下が悪い中をようこそおいで下さいました③」という応用問題に取り掛かっていく。
 確かに、①から発展していく方がスムーズに理解できるだろうが、その場合でも①を覚えると自然に②や③が頭の中に湧いて出てくるわけではない。知識はミジンコやボウフラではないのだ。②や③を使うためには当然記憶する作業は避けられない。
 逆に、①を覚えるのを飛ばして先に③だけを記憶しても、③が出題されれば満点を取ることは可能である。

 つまり、ここで言いたいのは、「何事においても基本は重要である」という一般論を「基本問題ができなければ応用問題はできない」という計算式に置き換えてはいけない、ということである。

 とエラそうに言っているが、これは私の発見でも何でもない。

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 ご存じ受験界の神様、和田秀樹先生が四半世紀も前におっしゃったことであり、私は氏の著書「受験は要領」で学んだにすぎない。

 高校時代、私は本当に英語が苦手だった。率直に言ってクルクルパーだった。なぜ、こんなに英語ができないのだろう、英語ができる人の頭の中はどうなっているのだろう、と真剣に悩んだ。
 どうすればできるようになるかの糸口すらわからなかった。

 国語と社会で人並み以上に稼いだ点を毎回英語が食いつぶし、人並み以下の得点となる。まるでニートで浪費家の息子が家に居座って出ていかない家のような構図だった。いつ果てるともしれないという点でもよく似ていた。

 一応、人並みに努力をした時期もあった。教科書や問題集を辞書を引きながら読み、問題を解き、答え合わせをし、解説を読む。間違えたところは赤ペンで訂正し、引いた単語は単語集にまとめてたまに読む。

 しかし、一向に事態の好転の兆しは見えなかった。
 何より、さっき引いた単語を直後に引いている自分がいた。
 それに気付いて心も引いた。

 と、上手いことを言っている場合でないほど事態は深刻だった。
 季節は9月の終わり。私は事情があって大学を浪人していたので約4ヶ月後には受験が迫っていた。もう何をすればいいのかすらわからなかった。

 そんな中で出会ったのが和田先生の本であった。

 先日見たNHKで深夜やっているサラリーマンNEO(これがまた中途半端な番組なんだが)で、スピー○ラーニン○のパロディをやっていて、ふと考えさせられた。
 「日本人って、ホント英語苦手なんだよな」と。
 そして、そのせいか様々な怪しい英語の教材や指導法が世間にひしめいている。

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 まず多いのが、このスピー○ラーニン○に代表される「聞くだけ教材」である。
 古くは小林○也の英語○ANなんて代物もあったが、雨後のタケノコのようにゾロゾロゾロゾロ枚挙にいとまがないほど出ては消え、出ては消え、を繰り返している。
 言っていることはおおむね同じである。
 ターゲットは高校英語に挫折した人(または現在挫折しそうな人)。
 「皆さんが英語で挫折したのはなぜでしょうか。それは耳を使ってなかったからです。逆に耳を使うと、目を使わなくても(つまり全く読まなくても)英語はグングンできるようになるのです」みたいなことをおっしゃる。そして、有名人が「僕も最初は半信半疑だったのですが…」などと提灯をもって下さるという仕掛けである。

 では効果はあるのか。

 おそらくない。
 この「英語」の部分を「相対性理論」に置き換えてみたらいい。
 「CDを聞き流すだけで突然ある日、相対性理論についてスラスラ理解できるようになった私がいたんです」なんて聞くと、あっ、オカルトだな、と普通に感じられる人も「英語」といわれると「ひょっとして」と思ってしまう。
 それはセールスが巧みだからというよりも、「こんなことができたらいいな」と思っているところに「はじめまして。わたくしドラえもんと申しますが」と商品が届くからである。要は、騙されたがっている人が商品を支える構造なのである。

 次に多いのが「暗記から解放される独自の習得法」みたいな教材・指導法である。

 これも怪しい。私はこの手の話を聞くとたいてい眉に唾をつけることにしている。
 「相対性理論」を暗記の要素ゼロで他人に説明できるようになるだろうか?それと同じことである。

 そこに書いてあることをまずは読む。そして、書かれたことを質問された場合にそれを答える。その中間で行われる処理を「暗記」と呼ぶか「理解」「記憶」と呼ぶかはそれぞれのご宗旨によって異なるだろうが、いずれにせよ作業としては大体同じものである。
 もちろん、全然意味がわからない単なる文字の羅列として覚える、いわゆる「馬鹿暗記」だとまずいのは当然である。よほどの特異能力がなければ、脳の中のメモリーが飛んでしまうし、いざ問題として聞かれた場合に検索がかけられなくなるからである。
 そんな極端な場合でなければある程度以上の語学は、やはりどれだけ根気よく自分の受ける試験で出題されるレベルの知識の「暗記」または「記憶」「理解」を繰り返すことができたかで決まるといってよい。
 まぁ、こんなことを言えば「100%を暗記しなくてもよい」と言っているだけだと反論されるかもしれないが、だったら「5パーセントあるいは10%暗記が減る」と最初から言っておくべきであり、「暗記から(100パーセント)解放される」という表現は避けるのが親切と言うものだろう。

 以前TVでデーブ・スペクター氏の日本語習得法を聞いたことがある。氏が在日何十年になるのか知らないが、いまだに知らない日本語に出会うことはしょっちゅうで、その都度その言葉のメモをとり(ひらがなで)、自宅で言葉の意味を検索し、その言葉を使った短文を暗記するのだそうである。まさに「There is no royal road to learning」である。ただ、氏は日頃軽薄なキャラで売っているのに、努力の人みたいな紹介をされ、困惑していたが。

 怪しげな学習法はまだまだあるが、きりがないので、あと一つだけに絞るとすれば「基本がわかればすべてがわかる式」とでもいうか、そういう一派である。
 この一派の特徴は、「急がば回れ」を逆手に取ることである。
 つまり、「受験までにもう時間がないのですがセンターで7割をとるにはどうしたらいいのでしょうか?」と聞くと、「はい、それでは中学1年の教科書からもう一度やり直してみましょう」みたいなことを平気で言い出すのである。

 では、この「基本」一派も「聞くだけ」派や「暗記不要」派と同じく嘘を言っているのか。

 と、話は佳境に入っていくのですが、少し長くなってまいりましたので続きは次回、本日はこれまで。
 御退屈様でした。

 先生の若い晩年の終幕は意外に早く訪れた。

 病名は「原発巣不明頸部リンパ節癌」。
 つまり、どこで生産されているのかわからないが首のリンパ節に癌の支店がある。これをとってもかまわないが、本店がわからない以上、最終的な結果は同じである、といったなんとも救いのない病名であった。

 しかし、先生は何というか慌てず騒がず、普段通りであった。

 毎日、病室のベッドの上で海外の推理小説の新刊を1~2冊ご覧になり、お好きだった鮨をいくつかつままれ、眠りに就く。変わりがあるとすれば鮨が日によって鰻になるくらいであった。普通に話し、笑い、怒る。泣くことも、過去を悔やむことも、将来を恐れることもない。拍子抜けするほど、普通そのものだった。

 あのとき病床で何を考えていらっしゃったのだろうと、今になって思う。
 先生は「構わんよ」というのが口癖だった。何かミスをして謝った時もこの「構わんよ」という言葉で許していただいたことが多かった。今、思うと先生は早く着きすぎた自らの死に対しても「構わんよ」と声を掛けてらっしゃったのかもしれない。

 先生の臨終のとき、私は先生と手をつないでいた。男同士で手をつなぐというのもどうかと思ったが、私も手持無沙汰だったし、寂しがりやの先生が少しは心強かろうと思っただけである。
 脈に合わせてか鼓動に合わせてかは知らないが、手を握って緩めてを規則的に繰り返しておられた。かなり長い間続いたように思う。そして、そろそろ今日は帰ろうかなと思い始めた時、先生の呼吸に少し変化が生じた。

 それから後はあっという間だった。
 可笑しかったのは、医師の「ご臨終です」の声の直後に少し強く先生が手を握られたことで、もしそれが医師の声に反応してであったのなら皮肉好きな先生の最後の置き土産であったような気がする。

 先生とテレビを見ていると「この人に学生の時こんなことを言われた」とか「この人と弁護士会でこんな話をした」とかおっしゃることが多かった。いずれも顔を見れば誰もが知っているコメンテーターや弁護士だった。一番驚いたのは、NYでかつて一緒に暮らしたこともあるという、毎年クリスマスカードが来ていた親友の米国人弁護士が東大大学院の客員教授に就任した時。しみじみ、「この人はこんなところで何をやっているのだろう」と先生の顔を見つめてしまった。

 人は、その人に合った舞台があると思う。それが大きかろうと小さかろうと、あるいは華やかだろうと地味だろうと、それは関係ない。ただ、自分に合った舞台にいなければできる仕事もできずじまいで終わってしまう。

 私は、先生は松山に帰ってらっしゃるべきではなかったと思う。確かに故郷ではあったが、松山は先生の本来の舞台ではなかった。その結果、どこかチグハグで、空回りしているような、労のみ多き人生を背負いこまれたのだと思う。

 先生がお亡くなりになる時、私はむしろ祝福したいような気分であった。
 ちょうど、進路を間違えて川に迷い込んでしまったクジラが海に戻っていくのを見送るように。
 「ようやく本来の場所に戻れますね、どうぞお気をつけて」と心の中で先生の後ろ姿に手を振り続けていた。

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 I先生の享年は56歳であった。広大無辺の知識とともに、それに勝る広く深い心をお持ちであった。
 謹んでご冥福をお祈りする。
 合掌。

 私が先生に拾って頂いたころ、先生はもう生きることに倦んでいらっしゃるように見えた。

 先生はアルコールの依存というよりは中毒に若干近かったように思う。

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 毎日少ない日がウィスキーをボトル3分の1、普通の日が半分、多い日は1本召し上がっていた。昼間だけの量である。食事はほとんど召し上がらない。特に根を詰めて考えごとをするときは全く何も口にしない。
 出張先で食事をご一緒すると「僕はウィスキー、三好君はこの店はこれ(たいてい一番高いメニュー)が名物だからこれを食べなさい」とおっしゃるのが常だった。おかげでずいぶんいいものを頂いた。そして先生はニコニコしながら私が食べるのをご覧になっていた。ご覧になっているだけで自分も上がったような気がしてらしたらしい。

 先生は特異な能力をたくさんお持ちだったが、覚えようと思ったもの(活字でも風景でも)を2、3回ご覧になると、かなり細部まで記憶できるという特技があった。もっともご本人は誰でもそういうものだと思ってらっしゃったようで、それができないことの方が不思議なようであった。また、相当な量のアルコールが入っても何も見ずに法律文書の口述をすることができ、ほとんど後から手を加える必要がなかった。

 そんな方であったので、昼間からお酒を召し上がっても文書が書けない、読めないといった支障はなかったが、まぁしかし、普通の人はひく。不審に思うし、恐れもする。当然である。

 徐々に、初期のころの優良「顧問先」は姿を消していき、代わりに怪しげな人たちが事務所に出入りし始めた。大体は「元暴力団だが現在更生しようと努力している」などと自称する人たちである。先生は基本的に性善説の人であり、そういった人たちにも親切であった。

 そうこうするうちに、昼間から弁護士は酒を飲んでいて、胡散臭い連中が出入りしている事務所ができ上がった。普通の人の足は遠のくばかりである。先生も薄々はマズイな、とお感じになっていたはずだが、急にはどうにもならない。仕方ないので今を忘れるために酔ってしまおうとする。
 ますます事態は悪くなる。完全な悪循環である。

 そんな終わりのない迷路のような時間がゆっくりと過ぎて行った。

 誰に対しても優しくて疑いを知らない、というのは本来美点のはずだが、それが自身を切り刻む刃になってしまっていた。

 ただ、私が勤め始めたころの先生は、そんな過去の栄光に包まれた日々とは少し異なる次元の生活を送っていらっしゃった。

 「弁護士とはどういう職業か」と問われた中坊公平弁護士が「依頼者に頼まれて、見ず知らずの他人を殴りに行くボクサー」とTVで答えていたが、確かにそういう側面がある。

 仮に医療過誤でトラブルが生じたとして、先に患者に頼まれれば医師の注意義務違反を指摘したであろう弁護士が、医師に頼まれて不可抗力を主張したりする。
 弁護士はあくまで与えられた立場からのベストを尽くすだけであって、逆の立場を与えられれば逆の主張をするだけである。単なるポリシーや、相手方への恨みつらみによって動いているわけではない。

 しかも、世の中の大多数の紛争当事者は100%悪とか、100%善などというわかりやすい存在ではなく、どちらにもそれなりの正義や後ろめたさ、そして親も子供も明日の暮らしの希望も持っている人たちである。
 ということは、こちらが敗訴で目の前で依頼者が泣いているときの逆は、相手が敗訴でその人の子供たちが泣いているのであり、いずれにせよ誰かが泣いているのである。
 このあたりが同じく社会的ステータスが高い職業とされている医師と弁護士の異なるところだろう。医師の場合、闘う相手は病気なので「全快治癒」となれば当事者全員で万歳ということがありうるが、弁護士の場合はそれがほとんど存在しない。
 いつも「少し後味が悪い」のである。

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 こういう職業に長い間従事していると、精神的な滓のようなものが溜まってくる。そして、それにもかかわらず仕事を続けるためには苦痛を和らげる何かが必要になってくる。
 1振り数100万円の日本刀を収集する人もでてくれば、豪華クルーザーで太平洋を横断する人もでてくる。

 私は結局弁護士になれずじまいであったので、そんな葛藤を自分のものとして味合わなくて済んだが、辛く苦しく、しかも終わらない現実を見つめながら仕事を続けていくことは根が純粋であるほど難しいことであったのだろう。

 そして、先生は結局アルコールによって精神的バランスをとる道を選ばれた。

 6月20日は私の恩師I先生の祥月命日であった。

 不肖の弟子である私は結局法曹への道を断念し、先生のご期待に添うことができなかったがここでI先生の人となりを皆様にお伝えし追善としたい。

 現在、シュロス松山のある場所に以前シャトーテル松山というホテルがあった。

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 オープンの際には皇族方や地元選出の代議士もテープカットに参加したという松山で最も格の高いホテルであったらしい。「らしい」というのは私はその当時のことを全く知らないからである。
 むしろ私の知っているシャトーテルはその後に周囲にできたビルに日差しを遮られた昼なお暗い、くすんで、うらぶれた、ビジネスホテルであった。そのシャトーテルの開業以来のテナントの1つがI法律事務所であった。

 そして、I先生も自然な感じでシャトーテルになじんでいらっしゃった。

 I先生が司法試験に合格なさったのは、年間出願者3万人に対して合格者500人、合格率1.5%という、司法試験が国家の最難関試験の時代であった。4浪5浪は当たり前、10浪も珍しくない世界。
 その試験に先生はわずか2回の受験で在学中にパスなさった。神の息子というか、ほとんど神そのものである。
 その後、東京の大手渉外弁護士事務所に所属。
 ちなみに渉外弁護士とは、字のとおり外国と交渉する弁護士で現在、国際弁護士と誤って呼ばれている、弁護士の中でも最もエリートの職種である。
 そして、そこで名前を聞けば誰でも知っている世界的企業の日本法人設立や、愛媛の人なら誰でも知っている地方銀行の海外支店設立などを数年間手掛けられた後、松山に帰っていらっしゃった。

 「なぜ松山に帰ろうと思ったのですか」と質問すると「僕はマザコンだから母のそばにいたかったんだ」と真面目な顔でおっしゃっていた。そのあと、「三好君もそうだろう」と真顔で聞かれたのには少々弱ったが…

 松山に帰ってからも華々しかったらしい。
 東京帰りの新進気鋭の青年弁護士、さらに英語もペラペラ。さっき申し上げたような事情で「青年弁護士」という存在自体が珍しかった時代に松山で開業。どうせお金を払うならこういう弁護士に頼みたいということで依頼者は引きも切らず押し寄せ、長者番付の常連。プライベートでもモテモテ、と公私ともに順調だったそうである。

 先生は苦労した話以外には過去の自分についてあまり語られなかったが、周囲の話を総合するとどうもそういうことであったらしい。

 ということで終わりそうにないので、この話次回に続きます。

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