スタッフブログ

 正直なところ、私の幼い頃の松山では、鰻などあまり高級な食べ物ではなかったように思う。

 今でこそ、鰻の蒲焼も出世してオージービーフのステーキなどは見下す勢いだが、当時の蒲焼と一緒に店で並んでいたメンバーは、どじょう汁や雀の串焼(空を飛んでるあの雀である)だったような…

 そんな中で出てくる鰻の蒲焼なので「父ちゃん、ホントに今夜は蒲焼が食べられるの?」みたいなテンションの上がり方は皆無だった。

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 ついでながら申し上げておくと、子供の頃の私は今どきのグルメの方からすれば垂涎の食生活を送っていた。
 さっきまで泳いでいた鯉の、洗い、鯉こく(鯉の味噌汁です)。大粒の田螺の味噌汁。特Lサイズのどじょう汁、蒲焼。地卵に地鶏。

 ただ、当時お子様だった私には全くありがたくない食生活だった。ほとんど、酒の肴ばかりである。しかも、かなり通好みというか渋めのチョイスである。子供が喜ぶわけがない。

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 卵は確かに旨かったが、鶏はキツかった。今風にいえば「自然の餌で育てて広い敷地で十分に運動させた鶏」なのだが、ひらたく言えば今朝まで庭で元気に遊んでいたペットのピヨちゃんである。「旨い」わけがない。おかげで「命を頂く」ということがどれだけ尊いことなのかは十分に学ばせて頂いたが、いまだにブロイラーだから旨くない、みたいなことを言っている人を見ると、はり倒したくなる。”ブロイラー上等”である。孔子様のおっしゃるとおり、生きているところを見た生き物の肉は食べるべきではない。

 ここまでご覧いただいた皆様の中でひょっとすると、金がないから採集生活でもしていたのかと誤解なさった方もいらっしゃるかもしれないが、別に食材を買えないからそういう暮らしをしていたわけではない。死んだ親父には旨かったのだろうし、男のロマンだったのだと思う。今の私が見たら少しだけ旨そうな気がするが、お子様だった当時の私には全く判らなかっただけである。

 ただし、その親父の食道楽のおかげで、いくら珍しくても所詮、鰻は鰻、卵も卵の味ということを教えてもらった。まぁ、ありがたいことであると感謝しつつ、今日は妻と奴豆腐などつつくことにする。

 といったあたりで本日はこれまで。
 御退屈様でした。

 去る21日は土用丑の日だったとか。
 全国で、というか、全アジアで多くの鰻が昇天したことと思いますが、いかがですか皆さん、鰻召し上がりました?
 というわけで、本日は鰻の思い出など。

 子供の頃、我が家は養鯉業を営んでいた。養鯉業とは、錦鯉の養殖をする仕事である。自宅兼店の敷地は1500坪。大きな池がいくつか点在していて、そこに鯉を飼っておき、夏から秋の頃、池の水を抜いて鯉を展示用の池に移す。この作業を「池上げ」という。私や妹のような小学生から、日当を払ってお越しいただいたご近所のご婦人方に至るまでを総動員し、まぁ、なかなか賑やかな季節の恒例行事であった。

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 で、この池上げをすると、大きくなった鯉と久しぶりに対面できるだけでなく、思わぬ副産物がある。鰻だ。

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 鰻というのは、日本中の川や池や沼に棲んでいるが、これが全部フィリピン生まれなのだそうだ。川が通じていない沼などにはどうやってたどり着くのかというと、陸を這っていくというのだからエライものである。
 まぁ、そんなガッツのあるウナちゃんなので、鯉の稚魚がごっそりいる私どもの池にも当然お越しになる。そして、「もう食えん」というだけ目一杯稚魚を召し上がり、丸々太った状態で、われわれとご対面の運びとなる。

 今で言うと「天然物の最上級品、特Lサイズ」といったところだろうか。

 その鯉の敵、憎い鰻君を3日~1週間ほど井戸水で飼って泥を吐かせると、いよいよ、われらの食膳にご登場である。死んだ親父が器用な人で、錐と小出刃を操って、鰻屋顔負けの勢いでさばいていた。

 で、味はどうだったか?

 まぁ、鰻の味であった。
 もう少し丁寧に言うと、最近スーパーで買ってくる鰻に比べると味が濃かったような記憶がある。

 少々話が長くなりそうなので、続きは次回。本日はこれまで。
 御退屈様でした。

 今日は若干軽いお話など。
 ときどき本を読んでいて絶妙の切り返しというのに出会うことがある。

 例えばこういうのだ。

 「酒を飲んで見苦しい醜態をさらすなど言語道断だ」と怒っているある文化人に対して立川談志氏の放った一言。
 「馬鹿野郎。見苦しく醜態をさらすために飲むのが酒なんだ」

 確かにこう言われると返す言葉が難しい。さすがは参議院議員のとき佐藤内閣の沖縄政務次官を酒でしくじった人である。

 あるいはこういうのもある。

 三木武吉氏といえば香川県高松市が生んだ戦後保守政治の大物政治家である。”宇宙人”鳩山由紀夫氏がよく「ジイサン」と呼ぶ鳩山一郎総理の盟友であり、昭和30年の保守合同の際、「自由党」と「民主党」を合同させて「自由民主党」を結党した立役者である。

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 その三木武吉氏が若き日に衆議院議員総選挙に立候補したとき、立会演説会で大物議員からこう言われた。
 「今回この選挙区から出馬しているある無名議員は、家賃2年分、米屋に1年分の支払いを溜めている。このような者が立候補すること自体が非常に問題である」
 これに対し、三木は慌てず騒がず、「先ほどある有名議員が無名議員とおっしゃったのは不肖、この三木武吉のことであります。三木は貧乏ですから借金はありますが、先ほどの数字に誤りがありましたのでここで訂正しておきます。正しくは、家賃3年、米屋に2年であります。ただし、私がそこいらのごろつきと違うことは、 現に今日、この演説会場にその米屋さんと大家さんがいらっしゃっていることであります 」
 ここで大家と米屋が立ち上がって一礼すると、会場は拍手と爆笑に包まれ、「エライぞ、借金王」と野次が飛んだという。

 スケールは違うが私の友人にもエライ人がいる。東京で役者をやっているW君。皆様もご存知かもしれないが役者というのは貧乏自慢に事欠かない人が多く、なかなか生活は大変らしいが、若い時W君はいつ見ても同じ、なんというか海藻のようになったジャージを着ていた。
 ある時、別の友人O君が服装についてW君に尋ねた時の答え。
 「おれたち役者っていうのはさあ、舞台の上でいつも華やかな衣装を着ているから、普段の服装は全く気にならないんだよね。役者の生理かなあ」
 立て板に水のようなスラスラ淀みのない答えを聞き、一同「成程そんなもんか」と思わず納得、単純な私などは真っ先にうなづいたものだった。ただし、帰りの電車の中でのO君の言葉を聞くまでは…
「でもさあ、役者がみんな普段あんな恰好をしないといけないのなら誰も役者になんかならないと思う」

 いずれにせよ、世の中にはエライ人がいる。常にピンチをチャンスに変えられる人。そんな人たちと間違っても口喧嘩などしてはいけない。下手をするとこちらが正しいことを言っているのに満座の中で赤っ恥をかかされることになりかねない。

 そんな人たちを見るたび、私はいかに自分が善良で、天使のように無垢な心をもっていることかと感慨にふけるのである。

 といったあたりで本日はこれまで。
 御退屈様でした。

三ちゃん

 別に頭がおかしくなって自分のことをちゃんづけで呼び始めたわけではない。
 三ちゃんとは我が家の愛犬、三の愛称である。
 三は7月7日の午前6時に息を引き取った。12歳と2カ月だった。

 三が我が家にやってきたのは、我々夫婦の結婚2ヶ月後だった。

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 ある日、妻の従姉妹から「飼っていたご婦人が亡くなったので、処分されそうになっているコリーがいるのだが、見てみないか」という電話がかかってきた。聞けば4歳だという。もう大人になっているということで少し躊躇したが、我々が断れば「処分」である。何はともあれ駆けつけて、まずは大きさ、姿の優雅さに驚いた。父方も母方もアメリカやイギリスのチャンピオン犬の血筋である。

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 我々などよりよほど毛並みがいい。しかも、性格が温和である。初めて会ったのに威嚇や警戒などゼロである。妻よりよほどおとなしい。
 これならやっていけるかと、我が家に連れてきたのがまるで昨日のことのように思われるが、もう8年前である。

 三という名は前主の命名である。自分が飼う3頭目のコリーという意味だったらしい。ただ、おかげで動物病院で薬などもらうときの氏名欄は「三好三」であり、私は少々きまり悪い思いがした。

 犬は人間の6倍のスピードで年をとる。三は来た時から去る時まで子のない我々夫婦にとって子供であったが、途中から目上の子供になり、年配の子供、最後は老衰で死んだ子供になった。当たり前のことであるが、ひどく不思議な気がする。

 優しい性格だった。一度もうなり声をあげたことがなかった。自分のことを子イヌだと思っていて、散歩のときも大きな犬を見かけるとそばに寄らないようにし、小さな犬を見ると一緒に遊びたがった。

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 死の3か月前から少し毛の色が薄くなってきた。1か月前からは後ろ足が不自由になってきた。ただ、食欲も落ちず元気に散歩もしていた。死の1週間前からは前足も利かなくなってきた。3日前には体を支える力もなくなった。それでも我々夫婦が行くと、苦しそうな息が和らぎ、少し甘えるそぶりを見せた。

 7月6日の午前2時くらいだったか、実家に泊まっていた妻から(三は妻の実家にいた)電話があった。三がどうしても鳴きやまないのだという。私は枕が変わると寝られない性質で、なるべく自宅以外には泊りたくない方なのだが、その時は不思議と「仕方ない、今夜は妻の実家に泊まろう」とすぐに決めた。別に今夜がヤマだとか思ったわけではない。こちらの計算ではもう1月はもつだろうと思っていたくらいだ。

 とりあえず、三のもとに行き、しばらくあやしてやると三は鳴くのをやめ、寝息を立て始めた。午前4時くらいだった。妻はその後、午前5時にもう一度三に起こされたらしいが水を一口やるとまた眠り始めたらしい。

 そして、義母が起きた午前8時にはもう三は息を引き取っていた。

 七夕に逝くなど、優美であった三にふさわしい。天の川の星の一つになって無明に漂う我々夫婦を照らしてくれるつもりなのだろうか。

 三よ、来世でまた会おう。一緒に野原を走ろう(…と言いつつも運動が大嫌いだった三が走ってくれるとも思えないがそれはともかく)。

 と、今回もしんみりした話で誠に申し訳ないが読者の皆様にご報告申し上げて、本日はこれまで。
 御退屈様でした。

 和田先生の話は単純明快であった。

 詳しくはご自身でご覧いただけばよいがおっしゃっている内容を私流にまとめると以下のとおりである。
①受験で毎年(センターや各大学で)出題されるのは実は(ほぼ)同じ問題(のローテーション)である
②ということは、過去に出題された問題を(一通り)暗記しておけば今年出題される問題も(そのまま)その中に含まれている
③よって、そういう問題集を(解かずに)(問題と解答を)(理由付きで)丸暗記すれば受験英語など恐るるに足りない
というものであった。

 「問題集を解かずに記憶していく」というのは、今では珍しくないが、当時としては非常に斬新であった。
 言ってみれば食事をすべてミキサーにかけてそれを飲む、というくらいに奇異な意見に思えた。ただ、その根拠はなるほど、と納得せざるを得なかった。何せその方法を自身が実験して東大理Ⅲに現役合格しているのである。華岡青洲の妻みたいなものだ。それに何より私には氏の意見への反証を用意する時間的余裕もなかった。

 使うテキストは桐原の「英語頻出問題総演習」、すなわち「即戦ゼミ」である。当時この本は出版されたばかりであったが、氏は「旺文社の英文標準問題精講の海賊版だが、よくできている」とご推奨であった。

 この「即戦ゼミ」を4カ月でどうやって覚えるか、一応計画を立てた。
 英語については自分の記憶力に全く信用が置けなかったので、とりあえず5段構えで覚えようと思った。つまり、1回目は1ヶ月かけて一通りを覚え、2回目は20日かけて忘れているところをさらい、3回目は2週間でそれでも覚えられないところを、といった要領で質で劣る記憶を回数で補おうとしたのである。

 もちろん、英語の対策がそれだけで足りるわけがない。同じようなやり方で、「試験に出る英単語」「試験に出る英熟語」を同時に進め、一段落がついたところで当時の受験生のバイブル「英文解釈教室」を投入、同じ要領で3回ほど繰り返した後で、「長文読解教室」、さらに最後には当時KKベストセラーズから出ていた「試験時間に勝つ! パーフェクト英文解釈 ― 長文問題のスピ-ド速解法」というテキストを2回ほど繰り返したところで、時間切れとなった。

 結局、模試も受けていないし、赤本も解いていない。というより、受けられなかったし、解けなかった。勉強を始めた時期が遅すぎたので、受験生が受ける模試はもう店じまいしており、また、赤本は悪い結果を想像すると怖すぎて最後まで開けなかった。今から考えれば、模試や赤本といった受験ツールを利用せずに受験対策を行うという愚かの極みのような対策であった。駅に行ってみると終電がもう出ていたので、コンパス片手に徒歩で目的地を目指さざるを得なかったのである。

 結果はどうだったか。

 早稲田には落ちたが、それ以外に受けた大学は全て受かった。落ちた早稲田も得意の日本史が撃沈したせいで、英語はむしろ易しかった。和田先生の方法は間違ってなかったわけである。

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 よく予備校や塾の広告で「3ヶ月で偏差値が35から65へ」といったのを見かけるが、私は誇大広告だとは思わない。私もまさにそうであったし、しかも独学であった。もっとも30もアップする偏差値などは初めがよほど低かったということだが…。

 正しい方法と最低限の能力、そして何より「信じる力」があれば、偏差値30など、上がって当たり前、上がらなければうそだと思う。
 
 …と、そんな苦労をして身につけた英語に関する知識であったが、大学に入って1年遊んでいる内に風の前の塵、きれいさっぱりなくなってしまった。現在は元の偏差値程度の英語力である。

 よい子のみんな、4カ月で身につけた知識は放っておくと4カ月でなくなるんだよ、みんなも気をつけようね。めでたし、めでたし…

 と、昔話風のオチがついたところで、本日はこれまで。
 御退屈様でした。

 ここしばらく私事で多忙を極め、ブログの更新が遅くなりましたことをまずはお詫び申し上げます。
 何があったかは後日改めて申し上げるとしてまずは宙ぶらりんになってしまった前回の続きをお話し申し上げましょう。

 
 「応用問題の基礎は基本問題である」というのは正しいが、「基本問題がわかれば応用問題も(自然に)解ける」わけではない。
 これをあいさつの言葉で例えると、基本の「こんにちは①」を覚えた後、その延長である「こんにちは。今日はよいお天気ですね②」を習得するのが通常であろう。
そしてその後「本日はお足下が悪い中をようこそおいで下さいました③」という応用問題に取り掛かっていく。
 確かに、①から発展していく方がスムーズに理解できるだろうが、その場合でも①を覚えると自然に②や③が頭の中に湧いて出てくるわけではない。知識はミジンコやボウフラではないのだ。②や③を使うためには当然記憶する作業は避けられない。
 逆に、①を覚えるのを飛ばして先に③だけを記憶しても、③が出題されれば満点を取ることは可能である。

 つまり、ここで言いたいのは、「何事においても基本は重要である」という一般論を「基本問題ができなければ応用問題はできない」という計算式に置き換えてはいけない、ということである。

 とエラそうに言っているが、これは私の発見でも何でもない。

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 ご存じ受験界の神様、和田秀樹先生が四半世紀も前におっしゃったことであり、私は氏の著書「受験は要領」で学んだにすぎない。

 高校時代、私は本当に英語が苦手だった。率直に言ってクルクルパーだった。なぜ、こんなに英語ができないのだろう、英語ができる人の頭の中はどうなっているのだろう、と真剣に悩んだ。
 どうすればできるようになるかの糸口すらわからなかった。

 国語と社会で人並み以上に稼いだ点を毎回英語が食いつぶし、人並み以下の得点となる。まるでニートで浪費家の息子が家に居座って出ていかない家のような構図だった。いつ果てるともしれないという点でもよく似ていた。

 一応、人並みに努力をした時期もあった。教科書や問題集を辞書を引きながら読み、問題を解き、答え合わせをし、解説を読む。間違えたところは赤ペンで訂正し、引いた単語は単語集にまとめてたまに読む。

 しかし、一向に事態の好転の兆しは見えなかった。
 何より、さっき引いた単語を直後に引いている自分がいた。
 それに気付いて心も引いた。

 と、上手いことを言っている場合でないほど事態は深刻だった。
 季節は9月の終わり。私は事情があって大学を浪人していたので約4ヶ月後には受験が迫っていた。もう何をすればいいのかすらわからなかった。

 そんな中で出会ったのが和田先生の本であった。

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