新年明けましておめでとうございます。
旧年中は私の拙い文章をご高覧いただきありがとうございました。本年もよろしくごひいきのほど御願い奉ります。
で、年末の話なのですが、ドラマ「坂の上の雲」最終回、ご覧になりました?
なんだかわけわかんないことになっていましたね。莫大なお金と膨大な時間をかけて、あの最終回とは…やっぱりドラマは脚本がすべて。脚本の野沢尚さんが自殺した時点で危惧されたことが現実化したのでしょうが…ただ、それにしてもあのエンディングとは…
ということで本日は、暮れにケーキの話でとんでしまった秋山大将のエピソードをご紹介申し上げ、ブログのスタートといたします。
松山市上野町に生涯学習センターという施設がありまして、割と不便な場所にあるので平日の昼間などはガラガラです。一時そこの図書室に自習のために通っていたことがありました。館内には郷土出身の偉人、有名人にまつわる品が展示されており、秋山大将の軍服その他も展示されておりましたが(現在は坂の上の雲ミュージアムに移っていると思いますが)、その中に秋山好古大将伝記刊行会が昭和10年に出版した「秋山好古」という本がありました。なんと驚いたことにその本は館外持ち出しこそ禁止ですが、室内では自由に読ませてくれるという太っ腹。しかも、その内容が面白い。小説「坂の上の雲」の秋山大将に関するエピソードもほとんどはこの本がタネ元です。ただ、この本自体が750ページもあるので、司馬先生も泣く泣く捨てたと思われるエピソードがいくつもありまして、今日はその中から現在も私が覚えているお話をご紹介申し上げます。
その1
日露戦争での1年有余に及ぶ出征中、秋山大将は2回しか入浴しなかったというエピソードは小説にも描かれております。副官(高級軍人の秘書役)がどれだけ入浴を勧めても「戦場に湯に入りに来たんじゃない、私が入る分があるんなら部下たちに入らせてやってくれ」の一点張りで決して入浴しなかったそうです。ただ、副官がしつこく入浴を勧めたのも親切だけではなかったようで、つまりまぁ、臭かったんだそうです。おそらく公園で暮らしてらっしゃる方々と同種の臭いだったのでしょう。その人とずっと行動を共にしなければならない副官にとって、この入浴拒否はなかなかこたえたようです。
その2
あるとき、千葉の内陸部で軍事演習をし、周囲の民家に泊まったときの夕食に鰹の刺身がでたんだそうです。別の部屋で食事をとっていた大将の部下がその刺身を召し上がると「舌にピリッときた」別にワサビや辛子をつけすぎたとかそういう話ではなく、つまり、まぁ刺身が傷んでいた、腐っていたということです。慌てて秋山大将の部屋に行きお膳の上を見るともう刺身がない。「閣下、その刺身は…」と言いかけると秋山大将はそれを制して「まあええよ」このあたりではこれくらいの鮮度が当たり前なのだろう。せっかく地域の人が好意で出してくれた食事の鮮度を云々すべきではない、と大略そのようなことをおっしゃって悠々としてらっしゃったそうです。
皆様いかがです?さすが軍人さん、1年に2回しか入浴しなくても平気、腐ったものを食べても分からない。これくらいじゃなきゃ、ああいう偉大なことはできないんだな、と感じさせるではありませんか。
ところが、「秋山好古」の巻末に掲載されていたご令嬢の「父の思い出」を読み驚きました。それはご家庭における秋山大将について「父は家庭では清潔な人で、身だしなみもきちんとした人でした。軍人にしては珍しく軍服の下に(外からは見えないのに)必ずホワイトシャツ(現在のYシャツのこと)を着けていました。また、食事の味付けにもよく気がつく人で、家族の楽しみは父に連れられての食べ歩きでした」と書かれていたのです。
エーっ!! ということは秋山大将は、入浴嫌いでもなく、味覚音痴でもない人だった…ということはある意味、本当に部下に入らせるために入浴せず、地域の人を傷つけないために傷んだ刺身も食べたのか…と、しばし呆然といたしました。そして、戦場でも酒を手放さなかったという有名なエピソードも、デリケートな神経をいくらか麻痺させて冷静な判断を下すためにだったのかもしれない、と改めて考えさせられました。
秋山大将はご家庭の経済的事情で軍人になる道を選ばれた方で、もともと軍人志望ではなかったようです。経済的余裕があれば、教育者の道を選択されたかったのかもしれない。もともと松山を離れたのも大阪の師範学校に入学するためですし、晩年も現在の松山北高校の前身である北予中学の校長を務め、福沢諭吉を尊敬して自身の子のみならず親類の子まで慶応義塾で学ばせようとした、といったエピソードがそう物語っているように思います。
その秋山大将が軍人の鑑、最後の古武士と皆から称されたのは、軍人としてそうあらねばならないという理想像を常に演じ続けたからではないか。そう思う時改めて大将の偉大さが心に染みます。
最後にもう一つ、エピソードを。
ご令嬢の先生が家庭訪問で秋山家を訪れたとき、飾ってある虎の毛皮に感心し「閣下、見事なものですな」とおっしゃた。その毛皮は朝鮮駐剳軍司令官を務めた秋山大将に朝鮮国王から贈られた国宝級の物だったらしいのですが、秋山大将はその言葉を聞くと「気にいったのなら差し上げよう」といって自ら毛皮をくるくる巻いて紐をかけて、恐縮する先生に土産に持たしてしまったそうです。
その後、毛皮がどうなったのかは失念してしまいましたが、その先生の驚く顔が目に浮かぶようです。
おそらく、軍人たる者は常に敵中への突撃を意識すべきである。そんなときに物への執着があれば判断が鈍る。だから、常に持ち物を褒められれば人にやる、ように自らを鍛錬なさっていたようです。ちなみに、日露戦争前に産まれたお子様達は大将の膝の上に抱かれた記憶が全くなく、戦後産まれた五男だか六男さんが抱いてもらっているのが非常に羨ましかったと書いておられました。
これなども平素から突撃のことを考え、周囲への執着を断ち切ろうと努力なさった現れなのでしょう。
本当に明治の人は偉かった。いや明治の人というか、秋山大将は幕末の生まれですから江戸の人という方が正しいのかもしれませんが。
「降る雪や 明治は遠くなりにけり」
常に自らを鍛錬してあるべき理想像にまで高めた秋山大将を始め、明治の人々の後ろ姿を眺めるとき、あまりの偉大さに自分と同じ人間なのか、と呆然とするような気がいたします。しかし、私も同じ伊予人の末輩、遠く及ばぬとしても少しでも近付かなければ…なんて柄にもなく決意などしたところで、本日はこれまで。
ご退屈様でした。
本年もどうぞよろしくお願い致します。
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