よく降りますね。
相変わらず梅雨真っ盛りですが、皆様いかがお過ごしですか。
私はようやく期末考査対策が終わりました。
がっ、しかしっ。いよいよ「夏を制する者は受験を制す」の夏休み目前でして。
生徒さんと昼間からみっちり触れ合える充実の季節も目前です。
なんというか、緩むというか、焦るというか、最近の空のような複雑な心もちでございます。
さて、今回は前回の終わりにお約束申し上げた「本能寺の変」の続きを申し上げましょう。
なお、先に申し上げておきますが私のこの稿の底本は鈴木眞哉氏の名著「信長は謀略で殺されたのか―本能寺の変・謀略説を嗤う―」です。ただ、読んだのも随分と昔でしかも実家の書庫に置きっぱなし、今回参照もしていないので記憶があやふやであったりする点も多々ございます。興味のある方はぜひ原本にあたって下さい。ちなみに歴史新書yで900円程度です。
さて、前置きはこのあたりにして。
まず前提として「本能寺の変」当時の日本の軍事情勢がどうなっていたかを考察しますと、信長による東海近畿制圧がほぼ完了しておりました。武田信玄・上杉謙信等のビッグネームもすでに故人。残るは、近畿以西では中国毛利、四国長宗我部、薩摩島津。東では、越後上杉・甲斐武田の残党、関東北条、奥羽伊達。
その毛利担当が羽柴秀吉。優勢に戦いを進め、最後の詰めに信長自身が数日後に京都経由で中国到着の予定でした。四国長宗我部には丹羽長秀と三男信孝。まさに瀬戸内海渡海の寸前で「変」が起きました。また、越後上杉には宿老柴田勝家をあて、こちらは苦戦中ながら攻略中。関東北条には滝川一益をあて、こちらも苦戦しつつも攻略中。
島津と伊達は手つかずですが、島津は毛利を、伊達は北条を下せば立ち枯れるだろうとの読みだったのでしょう。
政略面においても、「変」の直前にいわゆる三職推認が行われます。三職推任とは、正親町天皇から信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任じたいという意向が示されたという出来事です。
なんというか、すごいですよね。
「将軍でも関白でも好きなの持ってって!なんなら新しい官職作っちゃえ!スーパー将軍とか、太政大臣Zとか!!」くらいの勢いです(…失礼しました)。
ただ、「変」の結果、信長が望んだ官職は永遠に謎です。生きてたら何を望んだんですかね?やっぱり源頼朝を見習って武家の最高位としての征夷大将軍ですかね。でも、平清盛は太政大臣になっているから先輩を見習うというのならこっちというのもありか…。でもなくて新しい官職、グレート関白ダブルゼータ!!!なんだかよくわかりませんが。
さらに信長は、正親町天皇の皇太子である誠仁親王を猶子(養子のこと)にしていました。即位が確実視されていた誠仁親王が天皇になれば、信長は武家の筆頭にして天皇の父という足利義満以来の日本の最高権力者として君臨する予定でした。
と、ここまでが「変」当時の状況。
ここから読み取れることは、つまり、織田信長による天下布武の草創期が終わりにさしかかっていたということ。
信長、信忠ら創業者一族にとってみれば「始まり」の「終わり」。
しかし、光秀、秀吉ら従業員たちから見れば「終わり」の「始まり」が目前に迫っておりました。
まだ、この話終わりそうにありません。
続きます。
とりあえず本日はこれまで。
ご退屈様でした。
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